こんな夢を見た

ふだんは、あまり夢を見ない。いや、見ていても覚えていない、というべきだろうか。ましてや、夢分析などしない。好きではない。しかし、こんな夢を見た。

私はガラスのはめ込まれたドアの外にいて、内部を見ている。その建物には、もう一つの端に同じようなドアがり、そこには妻がいて、やはり内部を見ているようだ。建物の内部は、まるでコンビニみたいに、いろんなモノがびっしりつまった棚がいくつも並んでいる。その端の方(妻の立っているドアの近く)に、おそらく本や雑誌のコーナーだろうか、一人の赤ん坊がいる。身体は小さいが、顔は妙にどこか大人びている。いつ生まれたのか分からないが、自分の子どもだとわかる。声をかけようとして、思いがけずに、
「***か?」とドアのガラス越しに発している。
なぜ***なのか、自分でもわからない。大声ではないが、建物のなかまで聞こえているようで、赤ん坊は、赤ん坊であるにもかかわらず、
「ちがうよ」とはっきり答える。
そして私は、これは夢だな、と思う。


じつは、これは、入院して手術を受けた翌日の夜から朝にかけて見た短い夢だ。術後の夜は、全身麻酔が切れて、痛みと、身体にメスが入ったことによる生体の疲労と興奮のせいで、ほとんど眠れなかった。眠気に襲われ、それに身をゆだねても、二時間置きの検温やら点滴やらで、眠りを奪われてしまう。だから、実質的に、この夢は術後に最初に見た夢だ。

分析はやらない。でも、分かったことがある。このコンビニみたいな空間は、じつは病院の一階奥にある売店に近い。そしてその建物じたいは、病院そのものを意味しているということだ。とすれば、その内部にいる赤ん坊は自分ということになる。内部にいる自分を、外にいる自分が見ている……。そこまで考えた私は、フロイトの、「子供時代は、そのものじたいとしては、もうない」というセリフを思い浮かべる。そしてこれを、村上春樹論のまえがきかあとがきに使おうと考える。