俗流を離れて、京都でフロイトにひたる

littoral2007-09-20






京大会館で行われた「第一回フロイト思想研究会」にでかける。
新宮一成氏の発表は、「精神分析はエディプスコンプレクスと運命を共にするのか?」という発表。男女の性関係に還元される「俗流のエディ・コン」は、現実界を埋め合わせしてしまうのに対し、ラカンは、「性関係がない」というかたちで現実界を定位したという説明に納得。


そのほか、印象的だったのが、フロイトが『夢解釈』で報告している、「子どもがだれかにぶたれている」という受動の報告と「父がだれかをぶっている」という能動の報告の中間に、「私が父にぶたれている」という第二の段階を読みとっているが、この現実にはないのに分析によって構成され段階こそが、シニフィアンの導入になっているという示唆(ラカンによる)であるが、そこから、この分析による第二の段階の生成を、物語という言語(シニフィアン)の生成として敷衍できるだろうという気がした。


さらに、坂部恵氏の、ラカンの言説のうちに、スコラ的な「概念実在論」を、ベンヤミンを経由しながらとりだす作業も、じつに刺激的だった。ラカンのテクストに秘められたポリフォニーを聴取可能にしてくれた。

 
また、シンポジム後の懇親会で、両氏のほか、寺山修司ラカンで読んだ野島直子氏*1とも歓談する。

*1:ラカンで読む寺山修司の世界