空位時代の長距離走者 堀江敏幸の孤独な走り
「文學界」(07年11月号)掲載の堀江敏幸の「果樹園」を読みながら、作品への印象とともに、近代文学館の夏の催し「作家の誕生」で、本人がデビュー作『郊外へ』の頃を語っていたことを思いだす。まだ、40歳を越えたばかりで、もうデビュー作の回顧にひっぱり出される気分は、おそらく辛いものがあるだろう。
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それは、主催者側の配慮のなさか、批評性の現れなのか。おそらく、前者だろうという気がするが、それでも、堀江氏の受賞歴をみれば、文芸関係の主要な賞はとりつくした感がある以上、デビュー作を振り返るよう求められても仕方ないのかもしれない。
しかし、きつい。そのきつさは、当人にしか分からないだろうが、周回遅れとは逆の、他のランナーを何周も引き離した走者のきつさだ。別に文学賞のために走っているわけではないことは承知だが、それでも三島賞*1、芥川賞*2、川端康成文学賞から谷崎賞*3や読売文学賞*4まで獲れば、そのあと何をメルクマールに走るのか、しかしそれでも走りは終わらない。そういったきつさだ。
しかも、その作風は、長距離ランナーのものではない。中上健次なきあとの、メジャーな物語の、いわば空位の時代の走者なのだ。その味わいは、マイナー・ポエトリーにある。それが長距離走者のような走りを周囲から期待され、ここまで堅調なハイスピードで走ってきた。そういう、走りの特性と種目のずれから生じるきつさもあるのかもしれない。
で、今回の「果樹園」。交通事故で繊維関係の仕事を離れて実家にもどって、レタスとオクラという名の二匹の犬の散歩を代行することになった中年男の、犬を散歩させながらの回想を織りまぜた話だ。
オクラは足の不自由な犬で、左へと斜行するクセがある。それを、レタスがかばうのだが、主人公も交通事故で、「左足に軽い痺れ」がある。そういえば、飼い主も、「私とおなじ左足」を捻って、まだ膝の具合がよろしくない。みんな左足に問題アリ! その飼い主をかばうように、散歩の代役のアルバイトを主人公は引き受けたのだ。そして主人公は散歩させながら、リードの先の二匹の犬に、リハビリを手伝ってもらっている。しかし、いかに足に問題を集めているからといって、散歩途中で落ちていた汚れのない「右足」のベビー靴を主人公に拾わせ、交番にとどけさせるだろうか。そうした小さな事件ともいえない事件を、散歩の途中に置かなければならないほど、この二匹の犬に牽引された語りはつらいのだ。そうか、走りつづけるには、そうした小さな障害が必要なのだ、でもそれって、この走りがいつのまにか、小さな障害物競走になったということ? そんな疑問がわいてくる。
しかし、こういうときこそ、作家にとっての特権なのだ。作家としては、さらなる生成へのきっかけを与えられたようなものなのだから。川上弘美が『真鶴』*5で、それまでの作品の空気を変えたように、堀江敏幸にもいま何かが求められている。これからの、作品の一作ごとに、どんな一歩が刻まれ、どんな新たな走りをみせてくれるのか、注目!