続・レーダーホーゼン

littoral2007-07-30




村上春樹の「レーダーホーゼン」を読んで、あることに気づく、それをどう書くか、を考える、と数日前に書いたが、どう書くか、アイデアがわく。村上春樹全体を読み直すアリアドネの糸になるかもしれない。この夏に、新たな作業が加わることになりそうだ。

忘れてしまったのか、再創造なのか

littoral2007-07-26




大江健三郎の『読む人間』を読んで、ある個所にひっかかる。
第一部7章「仕様がない! 私は自分の想像力と思い出とを、葬らねばならない!」で語れる『憂い顔の童子』の最初と最後で反芻される記憶にかかわる。「私」=古義人が五歳のとき、「川で溺れかけた」体験だ。作家自身が引用している個所を、そのまま紹介する。

瀬が――急流、早瀬です――大岩にぶつかってできた深んど――深いところ――に潜ると、岩の裂け目の奥にある明るい場所に、ウグイの群れが流れにさからって泳いでいる(……)ある朝決心して、瀬の上から流れくだり大岩にへばりついた。小さな裸を逆さまにして岩の裂け目を覗き込む……次の瞬間、頭頂と顎は岩にくわえ込まれた。ジタバタしている自分。そして酷たらしいほど力強い腕が両足を掴んでひとねじりし、自由な水のなかに戻してくれた……

これを、大江健三郎は「だれが救ってくれたのかについては、この段階では子供自身にもよくわかっていなかったこととして、書いていない」、しかし作品の最後で、「頭に負傷して気を失っていた主人公が――もう彼は老人ですが――かつて気を失って、そして気がつくと頭に大きい苦痛を感じていた、その子供のときの経験を思い出すシーンが大きい役割を持っています」といい、やがて「あれはどうも母親が自分を助けてくれたのらしい、とわかって来た」という。
しかしこの記憶は、そのまま『新しい人よ眼ざめよ』の「怒りの大気に冷たい嬰児が立ちあがって」に使われている。しかもそこでは、最初から、「ミョート岩の淵の深みで、僕をいったんはウグイどもの巣に罰するように押しこんでから、引きずり出してくれたのも母親ではなかったか?」と記されている。つまり『憂い顔の童子』では、幼年から老年まで、母親の行為とは分からないように書かれているものが、とうの昔に書かれた『新しい人よ眼ざめよ』では、当初から、母親が救ったことが告げられているのだ。
『憂い顔の童子』を読みながら、この『新しい人よ』の個所を思い出すと、溺れかけて救われたという挿話を母親につなぐ手続きが、継続的な大江の読者には分かってしまって、効果がないのではないか、そのとき作者は、自らがかつて書いた同じ光景のことは忘れているのか、それともそんなことは百も承知で、同じ光景に新たな意味を付与したいものなのか。『新しい人よ』は、だから『憂い顔の童子』の結構をあらかじめ台無しにしている。
読む人間 憂い顔の童子 新しい人よ眼ざめよ (講談社文庫)

動物による哲学

littoral2007-07-23




面白い一冊に行き当たる。『哲学者たちの動物園』(ロベール・マッジョーリ・國分俊宏訳)。「ドゥルーズガタリのマダニ」、「デリダの猫」「ハイデガーの蜜蜂」等々。シャレた軽めの語り口に、なかなかの示唆がふくまれる。

哲学者たちの動物園

哲学者たちの動物園

レーダーホーゼン

littoral2007-07-20




村上春樹の「レーダーホーゼン」を読む。正確には、読み比べる。『回転木馬のデッド・ヒート』に収められたものと、『象の消滅』に、アメリカ版短篇集(冒頭は大幅に、終わりはごくわずかに、訳者による編集・加工がくわえられている)から作家自身が訳したものを。あることに気づく。それをどう書くか、を考える。それにしても、中越沖地震のアフター・ケアがいかにも遅い感じがする。

パラレル・ワールドがいっぱい

高校時代の友人と、7月10日の13:30、築地場外のスシ屋で久々に会う。互いに会議と会議の合間の2時間を利用。口がこえているわけではないが、スシは普通。
話題は、ほんのちょっと前のNature誌の「パラレル・ワールドがいっぱい」。つづいて、ブンガクとカガクのセッションの話。
そしてそこでの話への応答として、こんなことを友人に書き送る。
「それから、ブンガクとカガクのセッションですが、継続的にやりませんか。正直いって、忙しいので、いまは頭のなかのこと、と理解してください。年に2回くらい、小さな講演会としてスタートする。ただし〈科学カフェ〉みたいにではなく。できたら、こうしたセッションに興味のありそうな小説家などをゲストに招いて、3人で行う。毎回、互いに参照するトピックスを選定しておき、ブンガクとカガクの波打ちぎわをめぐる、というのはどうでしょう。まあ、そこにはわれわれの歩いた痕跡くらいは残るでしょうか。いや、それもすぐまた波にあらわれて、消えてゆくでしょうが……」等々。

in her world

littoral2007-07-16




川上未映子の「わたくし率 イン 歯ー、または世界」。
すばらしい。これを芥川賞候補に加えたということは、賞の周辺に、何かを変えたい、という人びとがいるということ。友人OZが私的に送ってきたメールには、こんな感想が記されていた。一部をここに紹介。

ワセブン・ゼロ号を読んだ。
まずは、あのざらついた紙と、それとは対照的な肌触りの表紙が、気に入った。
今日的かどうかは別にして、ぼくがもう一度手にしたいと思っていた旧『宝島』感覚の雑誌です。
さて、『わたくし率 イン 歯ー、または世界』。
読んでいて、デジャビュでした。
まず、細部にこだわるエクリチュールという意味でロブ=グリエを思い、
無機質への偏執という意味で『オリーブから〜』(アオウ)を思い、
そして、コトバの乱舞という意味でジョイスを思いました。
どうも、これはね、やっぱり受賞はないよね、とは思ったのですが、最終盤に向かうにつれ、ワタクシのなかの評価は高まりました。
歯は、生体にあってきわめて例外的な無機質突出物です。
そこに、自己存在を凝縮させる世界像は、スゴイ。
総入れ歯の高齢者は、わたくし率ゼロパーセントということになり、それは倫理上とても問題があるもの言いですが、当人たちの喪失感を見事に言いあてているようにも思われます。
そして、「青木」のアパートの金属階段を転げ落ちていく主人公は、公園の滑り台を滑り落ち、ころころ転がる『オリーブから〜』の「僕」に重なります。
で、ひょっとしたら受賞はあるかもしれません。
そうだとしたら、とてもスゴイこと。

ちなみに、『オリーブから〜』は、大学時代にやっていた同人誌(「唖嘔」)にOZが書いた秀作。いまでも冒頭の1行を覚えている。

はじめの一歩

若い編集者から、ここ半年、ブログをはじめるよう執拗に誘われている。
その打ち合わせをふくめて、Kに会う。
根が無精で、なかなか腰があがらない。腰があがったとしても、続かない。
更新速度のきわめてゆるやかなブログなど、意味はない。それでもはじめましょう、と執拗にいわれ、断ることもせず、追いつめられて、ここまで書く。
ここ2年半ほど、勤務先の大学の、新学部の立ち上げに時間をとられすぎた。いまもとられている。確実に、ここ数年で、ダイガクは変わってしまった。そうした変化の痕も目撃しつつ、ブンガクから遠く離れた場所を歩いてみようという気になっている。
すでにおこなった仕事の続篇になるが、〈私をジュギョウに連れてって〉というかたちで、この散歩をやってみようか、と考えている。基本的には、アポなしで、面白そうな話を聴きにもぐる。ジュギョウといっても大学と限定しているわけではない。動きだしたら、どこかでその報告はするつもり。